日蓮正宗 根室山 法海寺

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◎あの頃の創価学会

あの頃の創価学会

心構えが一切衆生の為なら、勝手に御本尊を書写しても御利益があると思い込んでいるから、やたらにニセマンダラが飛び出すのである。(大白蓮華 昭和三十年七月号)

 ただ、御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラの書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている
(大白蓮華 昭和三十四年7月号)

(塔婆供養について)形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。色心不二の二法であるがゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります。生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません。
(戸田城聖全集第二巻 一七六)

総本山の大御本尊にお会いするのは、親元に帰りたいといった気持ちで、なつかしがってくるようでなければなりません 
(戸田城聖全集 第二巻二七)


なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなりない (戸田城聖全集 第三巻四九〇)

 
日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。われわれは、令法久住のための信心を根幹として、広宣流布に邁進しているのである。しかし、いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る第三巻二五六)


日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである            (広布と人生を語る 第八巻 二二八) 

 
現在、日蓮宗と名のる宗派は多数あります。しかし彼らには、大聖人の仏法の中心である本門の本尊もなければ、実践論の目標である本門の戒壇もありません。根本の思想なく、また実践の方途もない宗教に、民衆を力強く再生させるなんの術もないことはいうまでもありません  (創価学会入門 昭和四十五年五月)

 
日達上人御遷化の後、御当代御法主上人猊下を非難している徒がいる。私は、命を賭して猊下をお護り申し上げる決心である。彼らは、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤しておきながら、いまは手のひらを返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい 
(広布と人生を語る 第三巻一四三)


いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである
(広布と人生を語る 第三巻二九四)

 
よく信心の血脈を問題にする者がいる。生死一大事血脈抄に『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。誰でも自由に継承できるなどというのはこれだ。(中略)有名無実の信心をふりまわして、付嘱相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざではないか     
(大白蓮華 昭和四十一年九月号)