日蓮正宗 根室山 法海寺

MENU

【日蓮正宗の体験】

『家ごと津波に流されても護られる』 妙応院支部 N・Sさん

皆さんこんにちは。私は、数年前から更年期障害で体調を崩しておりました。3月11日午後2時46分に突然大きな地震が起き、その後何やら遠くからゴォーゴォーという音が聞こえてまいりました。私は、更年期障害で耳鳴りがしたものだと呑気に構えて、茶碗など洗い物をしておりました。

実はそのゴォーゴォーという音は、高さ30m以上、速さが時速100km超の勢いて押し迫ってきた津波の音だったのです。私は、洗い物をしながら耳鳴りではないことに気がつきました。窓の外を見ようと思ったその時、急に地面がドドドォーと揺れたので、とっさに仏壇の扉を閉め、揺れが収まるのを待とうと思いました。

その途端、2階の窓を突き破って私の横をザァーとものすごい勢いで津波が通っていったのです。もう私はだめかと思い、御本尊様を仏壇ごと抱きかかえ、御題目を必死に唱えておりました。御題目を唱えながら、今年「実践行動の年」に当たって、新年より一週間に2人ずつ、一カ月で10人下種し、3月11日の津波が来る前日も下種活動をさせていただいたことを思い出し、その活動をさせていただいたことのご報告と御礼を御本尊様に申し上げておりました。

その報告を終えた瞬間、私に津波が襲ってきました、必死に「南無妙法蓮華経」と叫んでいたことは覚えておりますが、その後どのようになったか全く判りません。ハッと気がついたとき、自分が一命を取り留め、生きているということが判りました。

そして玄関に濡れていない長靴があったので、その長靴を履きました。なぜかすぐそばに山があったので、御本尊様を抱いたまま何も考えずに山を歩いて避難していくことができました。途中、山の中のプレハブ小屋で作業員らしい人が暖を取っていたので、一緒にそこでしばらく暖まりました。そこにいた作業員の方は、後で御主管・稲用正福御尊師からお聞きしたのですが、つい先日お寺の物置を修理に来た大工さんだったそうです、そして私は、避難所のほうに向かって歩いていきました。

その後落ち着いてからいろいろなことが判ってきました。住まいの1階部分の姑夫婦の住居は津波で全壊しました。私の住んでいた2階部分は、津波によってかなり離れた所まで流され、山の中腹から出ている大木に、2階部分が丸ごと乗っかっているではありませんか。その光景は、まるで御書の中に出てくる一眼の亀の浮木に値うかのようで、周辺の家は全壊して跡形もない状態の中、本当に御本尊様がら護って戴いたとしか言いようがありませんでした。

そして家の中は、御書や折伏資料等が床に落ちてはいたものの、ほとんど濡れておらず使える状態でした。家の中を見たとき、私は「今こそ折伏に立ち上がらなければ」と身震いを感じ、強い決意で胸がいっぱいになりました。

4月度の広布唱題会の砌、御法主日如上人猊下は、「今、大震災の復興へ向けて、各機関の方々、ボランティアの方々、国内のみならず、国外からも支援の手が差し伸べられていることは大いに評価すべきであり、賞賛に値する行為であることは間違いありません。しかしまた、さらに根本のところから、仏法の視点に立って、今、我々がなすべきことは何かといえば、私ども一人ひとりが『立正安国論』の御理想実現へ向けて、一人でも多くの人に、また一日でも早く、一人ひとりの心田に妙法の仏種を植え、折伏を行じていくことが、今、なすべき最も大切なことであります」(大白法812号)と御指南あそばされ、『立正安国論』に示された大聖人様の御正意を体して、仏国土実現をめざして一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、私たち本宗僧俗の大事な使命であると御教示されました。

私たちは、ともすれば今回の震災という大きな魔に負けて愚癡が多く出てしまいかねません。でも、愚癡は一切の功徳善根を消します。真剣な御題日は一切の迷い、愚癡を打ち払い、罪障消滅の道を切り開いてくださいます。そして折伏をすることで罪障消滅できるものと私は思っております。御主管様の御指導のもと、必ずや折伏を成就することを、ここ得道寺の御宝前で固く決意し、私の震災体験発表とさせていただきます。

大白法 814号)

『子孫に伝えたい護法の功徳』 法明寺支部 H・Tさん

私は姉と兄、弟の4人兄弟てす。皆それぞれ所帯を持って、宮城県の気仙沼に住んでいます。私は縁あって富士宮市の方と結婚して富士宮に住んで40年になります。3人の子供も結婚して、皆御本尊様を持ち、幸せな家庭を築いています。兄は永らく外国航路の船長をしていましたが、今は退職して気仙沼で悠々自適の生活をしています。

しかし、このたびの3月11日の大地震と津波には本当に驚かされました。本日の話は、兄と弟のことです。弟は船に乗っていますが、ちょうど漁を終えて、入港するときに大地震が発生したそうです。とっさに「このままでは他の船や岸壁にぶつかって壊れてしまう。不安な面もあるけれど、船を守るには沖に出るしかない」と判断したとのことです。

以下は弟の語ったことです。「そうこうしている間にも、津波の前兆が感じられ、運を天に任せて沖に出ることになりました。思った通り天にも迫る勢いで津波が迫ってきて、もうだめかと思われるほど船は激しく揺さぶられ、何度も何度も彼を被りました、ようやく沖に出ることができると、沖のほうは大きなうねりは続きましたが、どうにか船は安定しました、乗組員は皆、身心共に疲れて、助かったという安心感で、しばらくは放心状態でした。一休みしてから、港へ帰ろうということになりました。

港へ近づいてみると、津波で防波堤は壊れていました。さらに、沈んだ船や壊れたカキの養殖の筏などの残骸が重なっていて、とても入港できるような状態ではなかったので、石巻へ向かいました。石巻の港もたいへんな状態でしたが、自宅の家屋や家族が心配で早く帰りたい一心で、多くの残骸を避けながら、何とか港の端の方に船を着けて上陸しました。家へ帰るにも、汽車も走っていなければ車もないので、歩いて帰ることにしました。地崩れや地割れがひどく、地獄のような光景の中を歩き通しに歩いた空腹と疲れで、どこをどう通ったかも覚えていない状態でした。

翌日、トラックが通りかかったので、大きく手を振って止め、乗せてもらうことにしました。乗せてもらえたときは『天の助け』だと思い、運転手を見ると何と隣の家の人でした。お陰で無事に家に帰り着くことができました」ということでした。

そして兄の方は地震が来た時は、これは津波が来るぞと直感したそうです。ただ御本薄様を御護りすることだけを考えてお仏壇からむしり取るようにして御本尊様をつかみ、波にさらわれないよう自分の体にしばりつけて逃げたそうです。

周りの家は流されてしまいましたが、兄の家は流されずに助かりました。二、三日後、避難所から戻って家を見ると、畳の上に湯呑みが一つ落ちているだけだったそうです。電話の向こうの兄は、「御本尊様の御力って、本当にすごいぞ」と、御本尊様の不思議な御力に対する驚きと感謝で、ただただ興奮して話し続けるだけでした。

私はそれを聞いていて、逃げるだけでもたいへんな中を、御本尊様をお護りしたその功徳で、家族も家も守られたのだと確信しました。テレビで皆さんもご覧になったように、大きな被害が出ている中で、このように無事で済んだ事は不思議としか言いようがありません。私たち兄弟一同、子供の時から日蓮正宗の信心をすることができたからこそ、この大震災の中でも御本尊様に守っていただけたのだと思いました。これからも、家族・兄弟・親戚一同が、このたびの教訓を胸に、まじめに信心に励んでまいります。

さて、5月15日は支部総登山です。家庭を持っている私の3人の子とその連れ合い、2人の孫も一緒です。まもなく3人目の孫が誕生しますので、11月6日の支部総登山には10人で三代揃って登山いたします。そして子供・孫にしっかりと法統相続し、信心の大切さを教えてまいります。

私が子供に残してあげる財産も名誉もありませんが、子供・孫の一人ひとりが、それぞれの信心によって、御本尊様より身の福運を戴けるように導くことが、私の使命と思って、がんばってまいります。
大白法 814号)

余命宣告を受けられた方の信仰体験

余命宣告を受けられた方の信仰体験

 今から九年前の十二月に、長女が個人病院に診察を受けに行ったときに、同行した私も思い当たる体の異常があったので診察をしてもらいました。先生は何も述べずに、明日もう一度精密検査をするので来てくださいと言われました。地元の総合病院への紹介状をいただき、十二月二十五日に再度診察を受けました。結果は直腸ガンです。誰もいない病院の待合の廊下の椅子に座り、家族で涙を流しました。

 年明けの一月六日に手術と決まりました。その日は、私の四十二歳の誕生日でもあります。よりによってこんな日にと思いました。

 正月の三が日を終え四日に入院し、六日に手術です。手術は無事に終わり術後の経過も良好、一カ月間の入院で済みました。この間御住職・猪又法礼御尊師は幾度となく病室へ見舞いに来て励ましのお言葉をくださいました。

 退院してからも定期健診だけは欠かさずに行き、主治医も何もなく五年経てば大丈夫でしょうと言ってくれていました。

 その五年が過ぎ、もうこれで大丈夫と思っていたのに六年目の七月、PET検査でガンの再発と肺への転移ガンが見つかりました。今から三年前です。

 余命宣告、必ず克服する決意

 転移の肺ガンはやっかいなことに肺の表面ではなく奥の付け根部分の硬い場所にできているとのことで、翌八月から一カ月間毎日のように放射線治療、九月からは抗ガン剤治療となったのです。

 この抗ガン剤治療は四十八時間の点滴で行います。月二回・隔週の金、土、日と入院し、もう五十一回抗ガン剤を受けています。吐き気、手足のしびれ、全身のだるさ、味覚障害、食欲不振等、様々の副作用があります。

 金、土と仕事を休むため、仕事は溜まります。退院後の月曜日は一番倦怠感がひどく、吐き気も続いて全く食べられません。でも今日まで自営の仕事は一日も休まず、乗り切ってきました。また、他の人と比べると不思議と副作用も比較的軽く済んでいます。これも、御本尊様のお陰と感謝をしている次第です。

 そんな日々の中、「もっと大きな病院で診てもらったら」という姉の勧めで、一昨年の五月三十一日に大阪、森ノ宮の成人病センターで診察を受けました。結果は、末期ガンのステージ四、何も治療をしなかったら余命八カ月、抗ガン剤治療をしても、あと二十カ月と宣告されました。

 このとき頭をよぎったのは、「延命治療の抗ガン剤を受けても二十カ月しか生きられないのか。抗ガン剤で苦しみながら二十カ月生きるか、抗ガン剤を受けず苦しまないで八カ月の命を全うするか、どちらかなんだな」と、あまりのショックで頭の中が真っ白になり、どうやって病院の四階駐車場まで辿り着いたか、はっきり覚えていません。

 「家で死ぬか病院で死ぬか」死の宣告からさらに寿命を戴く

 ただ、後ろから歩いてくる家内の「気をしっかり持たなんだら」という言葉だけが聞こえてきました。でもはっきりと宣告をしてくれたお陰で心も定まりました。「抗ガン剤を受け、定められた二十カ月の間に結果を出すのだ。御本尊様にすべてを預けよう。とにかく乗り切ろう。信心を試されているのだ。今までにない強い信心で、必ず実証を示すぞ」と深く御本尊様に誓いました。毎日の勤行・唱題も常に今日が最後という気持ちで真剣に祈り、仕事も同じ気持ちでがんばり、毎晩の唱題を終えた後は今日一日元気で過ごせたことに心の底から感謝の御礼をさせていただいています。

 そんな中、御住職様のお計らいで六月二十九日に御秘符を戴き、我が家の御本尊様にお供えをし、丑寅勤行を七月三日まで行ってから頂戴いたしました。「絶対にガンに勝つ」と強く心を定めた次第です。

 さて、昨年の二月、どこで私の病状を聞きつけたか、創価学会のゾーンの幹部たちが仕事中に、また、婦人部員が夜にと、やって来るようになりました。特にゾーンの幹部が来たときは、納期の迫った仕事で忙しい最中で、二週間後に話を聞くからと言って帰ってもらいました。

 そして二週間後、こちらから時間を設定し学会の人に電話を入れました。相手もこの日を待ち望んでいたのか、すぐさま今晩行きますと強い返事がきました。私も絶対に学会の間違っているところを強く破折するぞと思って、その夜七時の待ち合わせ時間を待ちましたが、とうとう幹部たちは来ませんでした。「行けない」という電話もなかったのです。毎日残業という最中に貴重な時間を作ったのにすっぽかされ、怒り心頭です。ゾーンの幹部宅へ電話を入れるとちょうど本人が出たので、徹底的に破折し、信心の姿勢がなっていないと強く糾しました。どのようにしても、こちらの正法を信じ燃える強い今の生命力には、勝てるわけはありません。

 さて、昨年の三月頃から、病状に変化が現れました。一昨年の六月には「頭の明白なうちに、病院で死ぬか家で死ぬか、決めておいたほうがよい。転移の肺ガンも手術はできません」と言っていた主治医が、昨年の三月中旬に抗ガン剤を入れている病室へ来て、「手術をしてみよう」と言ってくれました。早速四月八日に手術を行い、肺ガンの病巣摘出に成功しました。退院後も続く抗ガン剤に負けず今日まで乗り切ってきました。

 つい先日も主治医が、「こんなに体力のある強い人、今までに見たことがない。抗ガン剤が打てるかどうかの隔週の血液検査でも、白血球や血小板の数値が二週間で正帯に戻っている」と感心していました。ポートという取り付け口を入れずに腕だけの点滴でこんなに続くのはまれと言っていました。私には御本尊様がついているから、通常の人とは違う体なんだと、心の中で叫んでいました。

 一昨年六月に家族で添書登山をし、昨年も八月に家族で登山させていただきました。健康であればこそ総本山へ参詣できます。本年も『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念総登山へお詣りして元気であることを大御本尊様にご報告申し上げたい、毎年続けるんだと、強く心に思っています。

 元気な体で使命に臨む

 さて、一昨年、抗ガン剤治療をしても余命.二十カ月と宣告されたその最終日が、正しく、本年一月です。本来ならは今月、私は死ぬ予定になっています。いや、もう死んでいても不思議ではありません。なぜならば、私と同じように抗ガン剤治寮を始め、病院で出会うたびに励ましあった何人もの人が亡くなっていくのを目の当たりにしているからです。

 今の私を見て、皆さん、私が死ぬように思えますか。このように元気です。

 私には、家族を守る使命があります。折伏をしなくてはいけない使命があります。宝相寺興隆のためにがんばる使命があります。死ぬことはできません。

 昨年の十二月にも学会の婦人部員たちが、私の様子を見に二度訪問してきました。私の弱っている姿を期待していたのでしょうけど、この、ように元気です。くだらない、信心からかけ離れた筋の通らない埋諭しか話せず、全く相手にするだけ時間の無駄でした。「創価学会が主で、本山は従だ」と言うのです。本末転倒も甚だしい、開いた口が塞がりません。学会にはもう信心がありません。早くそのことに気づいて、学会員には本当の信心に目覚めていただきたいものです。

 最後になりましたが、最新の私のガン報告です。

 昨年の暮れに和歌山市内の向陽病院でPET検査を受けました。その結果を本年一月七日に社会保険紀南病院で聞いたのです。PET検査の画像を見なから説明を受けました。自宅では家内がずっと御題目を唱え、私も心の中でずっと御題目を唱えていました

 結果は、PET検査ではガンが見つかればその部分が光って映りますが、全く光らず「ガン」と呼べるものがないと言ってくれました。思わず、心の中で「ガンに勝った、御本尊様ありがとうございます」と感謝をしていました。

 苦しさに耐えた二年四カ月、合計五十一回の抗ガン剤の点滴ともさようならです。何と不思議にも五十一回の抗ガン剤は本年一月六日、私の五十一歳の誕生日で、年の数と一緒です。死の宣告をされていたこの一月に、私は生き返ったのです。御本尊様の御力は本当にすごい、余命を宣告された末期ガンでも克服できるのだと大確信をした次第です。

『崇峻天皇御書』に日く、

「人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴腎穴賢。蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(御書一一七三)

 私の一番大好きな御書です。十七歳のときにこの御文に出会い、信心に目覚めました。闘病体験を通して、この御文を心をもって読むことができています。

 これからますます、再度与えられた命をもって御本尊様にお仕えして、また微々たる力ではございますが日蓮正宗興隆のため、さらなる折はに命をかけてがんばってまいりますので、法華講の皆さん共々にがんばりましょう。

奥様のお話し

 

 今から九年前、主人が直腸ガンと宣告されたのが縁で私は、まじめに信心に向き合い、白身の宿業の深さとの闘いを始めたのです。

 平成十二年の一月六日に無事、主人の手術は成功しました。

 それから数年の間に、十年来の友人の杉原さんとその娘・田ノ岡さんを折伏させていただき、入信してくれました。

 さて、主人のガンは六年目にして再発、さらに肺への転移が、PET検査で見つかったのです。私は、一生懸命に信心をしていたのになぜこのような結果になってしまったのかと、悩み苦しみました。御住職・猪又法礼御尊師、奥様には常々、励ましていただきました。

 今は信心を試されているのだと強く感じてから、本当に私の命が変わり、絶対に主人のガンを治してみせると決心し、日に日に、今まで味わったことのない歓喜が涌き上がってきました。そして、一昨年の八月には主人の兄と甥が勧誠式をお受けできました。 

 一時間、二時間、三時間と、とにかく時間があれば御本尊様の前に座り、御題目を唱えています。そのようにして家族一丸となってがんばっているとき、転移している肺ガンは手術ができないと言われていたのが、去年の三月に、再発の直腸ガンは活動しているが安定しているので、転移の肺ガンを手術してみましょうと言っていただき四月に手術を行いました。手術日の手術時間に、宝相寺支部の皆さんに御題目を唱えていただき、無事に病巣を全部摘出できました。

 去年八月に主人の無事手術の御礼と、一年間留学していた高校二年の次女の無事帰国の御礼の登山を家族全員でさせていただきました。その際、今度は母を連れて来てあげたいと願って帰ってきました。

 それから数日後、何と母のほうから信心をしたいと言ってきたのです七十年も地元の寺で熱心に信心していた母が日蓮正宗に入信するなんて、夢にも思っていませんでした。九月に母と姉が御授戒をお受けできましたl

 そして、十月の支部総登山に、私と次女と共に参加した母は、八十九歳の高齢にもかかわらず、丑寅勤行、広布唱題会、御開扉と、すべての行事に元気に参加できました。

 十月十二日、母は御本尊様を御下付戴き、御住職様、講中の皆さんと一緒に、母の家へ御本尊様を御安置することができました。母は喜びに満ちた日々を過ごしており、姉も前より体の調子がよくなり喜んでいます。さらに驚いたことは、九十三歳になる母の姉が、同じ信心をしたいと言ってくれました。

 昨年、今日の体験発表が決まったとき、絶対に一世帯の折伏をして本日を迎えたいと強く思い、御題目も年頭より二百万遍唱えると決意し毎日、二、三時間唱えています。

  その結果、先週の御報恩御講の日、大阪に住む主人の甥を折伏できました。この日は、主人の兄、奈良に住む主人の両親も宝相寺へ駆けつけてくれました。現在私は、毎日の朝夕の勤行のとき、私に使命をくださいと願い、十人以上の下種先を御祈念しています。

 私がいつも励みにしている御書の一節がございます。

「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」(御書 七九六)
です。主人のガンは大悪ですが、何も嘆くことはありません。

 ここで、私の不思議な体験があります。御題目を真剣に唱えているとき、御本尊様の「泣かないで泣かないで。笑って笑って」という御声がはっきり聞こえてきたのです。泣いてなんかいられない、よい結果を必ず出すんだから、御本尊様が必ず証明してくださるんだから悲観せず明るくがんばっていこうと、さらなる勇気が涌いてきたことがありました。

 今回、主人のガン闘病に家族で真剣に取り組んでいく中でたくさんの功徳を戴きました。娘の大学入試もストレートに志望大学に決まり、自営の仕事も順調で、忙しくて依頼を断っているくらいです。本当に毎日が充実しています。

 今年もますます、下種、折伏をして広宣流布をめざして功徳の実証を示していきたいと思っています。

大白法 H21・3・1号より 

立正佼成会、創価学会を経て入信された方の体験

 こんにちは。E.Yです。

本日は、昨年の四月十五日に亡くなった母のことと、私自身が信心で変わったことをお話ざせていただきます。

   私の家は、先祖代々の宗旨は禅宗ですが、祖母が立正佼成会に入信し、私が物心ついた頃には熱心に立正佼成会の信仰をしておりました。私自身、小さい頃、姉と一緒に祖母に手を引かれて、立正佼成会の集まりに連れて行かれたことを覚えています。

 そうした中、今度は、父が職場の人に誘われて創価学会に入り、御本尊様をお受けしたのですが、怒った祖母は、父が仕事に行っている間に、御本尊様を立正佼成会の本部に持って行って焼いてしまう、という大謗法を犯してしまったのです。

 思えば、その頃から我が家は、まさに仏罰を絵に描いたような状況になっていきました。

 まず、祖母は、御本尊様を御不敬した直後からリウマチで苦しむようになり、寝たきりとなって、三年間、許しみ抜いたあげく、亡くなってしまいました。

 また、同じ頃、父は、喘息(ぜんそく)を患(わずら)い、発作が出ると仕事にも行けなくなるため、収人が安定せず、私の家は、いつもいつも貧乏でお金に困っていました。

 さらに、姉は、精神的な障害から、小学校に行くことすらできませんでした。

そして、私自身はといえば、聴覚(ちょうかく)に異常があり、両耳ともほとんど聞こえないくらいの難聴でした。

 そのせいもあってか、小・中学校では、皆から仲間はずれにされた上、階段から突き落とされたり、虫をぶつけられたりと、毎日毎日、ひどいイジメに遭(あ)っておりました。もともと内向的だった私は、学校でも家でも、ほとんど口を開くことがなく、イジメについて一人で苦しんでいました。

  やがて高校を卒業した私は、将来に何のあてもないまま、喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしていたのですが、そこで知り合った妙観講のT.Mさんから折伏を受け、昭和五十九年、日蓮正宗に入信することができたのです。

  ところが、家に帰って、日蓮正宗に入信したことを母に話したところ、母は、
 「宗教は金儲けだ。すぐに止めると言ってきなさい」と、大変な剣幕(けんまく)で怒り出したのです。

 それも無理のないことだったかもしれません。母は、昔、立正佼成会に入っていた祖母がリウマチで寝たきりになって、その看病(かんびょう)だけでも大変なのに、さらに父も喘息で働けず、医者に払うお金にも困るような状況の中で、祖母から言いつけられては、立正佼成会に布施(ふせ)を持って行かされるなど、さんざんな目に遭っていたのです。宗教に正邪の違いがあることなど知る由もなかった母は、宗教は懲(こ)りごり、という心境だったのでしょう。

 それからの十年間というもの、私がいくら話しても、母は全く耳を貸してくれず、徹底的に信仰に反対し続けたのでした。

  しかし、私は、母の反対を押し切って勤行に励み、会合にも参加して、さらに教えられたとおり、周囲の人達を片っ端から折伏していきました。

  そうした中の、入信六年目の平成二年、父を折伏した際、父は初めて、自分が創価学会を通じて入信していたこと、祖母の反対で退転してしまったこと、御本尊様を御不敬されたことなどを打ち明けてきました。

 その頃の父は、喘息のために何年間も入院しており、かなり身体も弱っておりました。御本尊様を御不敬した仏罰でこんなにひどい目に遭っているのだ、と知った父は、妙観講に入講することになったのですが、この時も、母は頑(がん)として譲ることなく、自分は絶対に入らない、と言い張りました。

  そんな母が、この信心ができるようになったきっかけは、平成三年の父の葬儀でした。

  父が亡くなった時、私は、葬儀は何としても日蓮正宗で出さなければ、と思い、母に「お父さんは、自分が死んだら日蓮正宗で葬儀を出してほしい、と言っていた。そうさせてほしい」と話しました。

 すると母は、あっさりと 「お前に任せる」と言ってくれたのです。

 猛烈に反対してくるものを覚悟していただけに、それは本当に意外な返事でした。

  さらに驚いたのは、その後の母の行動でした。母は、誰に言われたわけでもないのに、その日のうちに菩提寺である禅宗の寺に足を運び、「私の家は日蓮正宗に改宗しました」と言って、禅宗と縁を切ってきたのです。私は、「まだ御授戒も受けていないのに、せっかちな母だなぁ」と思いながらも、本当に嬉しく思いました。

  そして、無事に父の葬儀が終わった一ヵ月後、先輩方が私の実家に足を運んでくださり、母を折伏してくださいました。母は、「父の追善供養(ついぜんくよう)のためにも」ということで納得し、姉と共に入信を決意してくれました。

 十年もの間、あれほど強行に反対し続けた母とは思えない変わりようでした。

  母は、足が悪かったために、本部での会合には参加できませんでしたが、私が実家に出向いて行なう班座談会の時には、いつもニコニコして話を聞いてくれました。

また、私が『暁鐘』や『妙観』を渡すと、母はいつも熱心に読んでくれました。

とくに、御法主上人猊下様の御説法は、本当に真剣に読んでいました。

 そして、「本当に池田は悪いやつだね」とか「創価学会はとても大きな組織だけど、負けないように頑張れ」などと話してくれるようになったのです。総会にも、何回か参加することができました。

  しかし、高齢となった母は、五年程前から心臓が弱くなり、入退院を繰り返すようになっていきました。

 途中、二回ほど危篤(きとく)状態に陥ったこともありましたが、小川御住職様に当病平癒(とうびょうへいゆ)の御祈念をしていただいたおかげで、そのつど、命を取り留めることができ、こうした体験を通じて、母は御本尊様への信心を固めていくことができたのです。

  そして、昨年四月十五日、母は臨終を迎えましたが、全く苦しむこともなく、穏やかな相で亡くなりました。

 一日おいて四月十七日にお通夜、翌十八日に告別式と決まり、小川御住職様のお計らいで、近くのU市のJ寺様から御僧侶が来てくださることになりました。 

私は、母の成仏を願って、必死で唱題していきました。

そして、お通夜を迎えた時、母は本当にすばらしい姿になっていたのです。

 御書に、
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、軟らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し」(御書一二九〇ページ)と仰せられ、成仏した人は、生前よりも色が白くなり、死後硬直が起こらず、臭いも全くなく、身体が柔らかくなる、と示されています。

  生前の母は、決して色白な人ではありませんでしたが、臨終を迎えた母の顔は、死に化粧などしていないのに、本当に白くなって、シミの一つもないのです。

体も、硬直することなく、柔らかいままでした。まるで安らかに眠っているような、本当に穏やかな相でした。

  母の遺体と対面した親戚の叔父や叔母からは、「きれいだ!別人みたいだ!」

 と驚きの声が上がり、ある人は、驚きのあまり、「本当にお母さんはきれいな人だ。あなたはお母さんに似なくて可哀相だったね」(笑い)と言ってきました。

  私にとっては、ずいぶん失礼な話ですが、それも、母の相の、あまりの素晴らしさから出た言葉ですから、嬉しく思いました。 お通夜の後、御僧侶に御礼を申し上げたところ、御僧侶からも「本当にきれいな相ですね。自信を持っていいですよ」 と言っていただきました。

  お通夜の日は、講中の同志の方々が大勢駆けつけてきてくださり、母のために、泊りがけでお題目を唱えてくださいました。その功徳に支えられて、母の相はさらにきれいになっていき、息を引き取ってから火葬までのまる三日間、ドライアイスも入れていないのに、全く死臭もありませんでした。

  思えば、私は、これまで祖母・父・母と、三人の肉親を見送りました。

 立正佼成会の信者で御本尊様を御不敬した祖母は、臨終が迫った時、苦しみのあまり「神も仏もない」と叫んで息を引き取り、顔が真っ黒になってしまいました。まさに、御書や経典に示されたとおりの地獄の相です。

  また、大切な御本尊様をお護りできなかった父は、晩年、妙観講に入講はした

 ものの、御題目を唱えることすらなかなかできないような信心状態で、結局、臨終間際には、私に「殺してくれ」と頼むほど、苦しみぬいて亡くなったのです。

 しかし、そんな父も、日蓮正宗で葬儀をしていただくことができ、御僧侶の御祈念と講中の皆さんの御題目のおかげで、辛うじて良い相になることができました

  ところが、信心することのできた母の場合は、四年の闘病(とうびょう)期間中、ほとんど苦しむことがなく、それどころか、臨終が近づくにつれて穏(おだ)やかな相になっていき、ついには成仏の相を現ずることができたのです。

  私は、この三人の姿を引き比べ、あらためて邪宗謗法の恐ろしさを思うと同時に、「やはり、自ら御本尊様を信じて唱えた御題目の功徳は絶大なのだ」と確信し、御本尊様に巡り会えた喜びをかみしめました。

  また、私自身、まだまだ至らないながらも仏道修行に励んでくる中で、本当に考えられないような功徳をいただいてきました。

 入信前は、人と接することが苦手で、些細(ささい)なことで落ち込み、すぐに自殺を考えたりするような伏態だったのが、いつの間にか、周囲の人とも円満に付き合うことができるようになり、今では、人から頼られ慕(した)われることさえあります。気がついたら、会話することも好きになっていました。

  また、両親の体質を受け継いだのか、小さい頃から病弱で、病名を挙げたら二十を超えるくらいでしたが、仏道修行に励むにつれてどんどん健康になっていき、今では病気らしい病気もなくなり、元気すぎるくらいの健康体になりました。

  とくに、入信して数年が経った頃、罪業が出たのでしょうか、父と同じ喘息(ぜんそく)になった時はショックでしたが、発作のために毎日ニ時間ほどしか眠れない状況の中、発作が起きるたびに御本尊様に向かって二時間・三時間と唱題をし、回りの人を片っ端から折伏していったところ、二ヶ月でピタリと治ってしまいました。

  さらに入信七年目には、驚くべきことが起こりました。小さい時からほとんど聞こえなかった両耳のうち、なんと、左耳が完全に聞こえるようになっていたのです。

  それは、本部で唱題していた時のことです。じつは、私は入信以来ずっと、難聴のために皆さんの唱題に声を合わせることができずにいたのですが、たまたまその時、どなたかから「Eさん、声が合うようになりましたね」と声を掛けられ、そこで初めて、いつのまにか自分の耳が完全に聞こえるようになっていることに気が付いたのでした。

 私は、嬉しくて有り難くて、心の底から御本尊様に御礼申し上げました。

  母の葬儀の際に久しぶりに会った叔父や叔母は、私が明るく、しっかりしてきた、と驚き、喜んでくれました。

  御本尊様に出会えなかったら、また出会っても、創価学会で入信した父のように、正しい信心の在り方を教えてもらえなかったら、今の私は絶対にありませんでした。正しい師のもとで、正しく信心させていただけることを、心から有り難く思います。

  現在も、「絶対に創価学会を崩壊させるんだ」との想いで、毎日のように学会員に対する折伏をしておりますが、昨年の総会以降、私の班では十五名の学会員を正宗に帰伏させることができました。

  私が重点的に回っている地域の学会幹部の間では、「Eは有名な詐欺師(さぎし)で、学会の本尊を破り歩いている」などと言われているらしいです。

  もちろん、デタラメもいいところですが、大聖人様は、
「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是なり」(御書九〇六ページ)と仰せられています。

折伏ゆえに悪口を言われれば、それが全て罪障消滅になるのですから、こんな有り難いことはありません。

 これからも、大聖人様の御金言に身を任せ、しっかりと仏道修行に励んでまい ります。ありがとうございました。

日蓮宗からの改宗 自閉症のお子さんを持つ方の体験

● この方はご自身も重度のアトピー性皮膚炎などに悩まされ、お子様は「自閉症」との難病を持って生まれた合わすとの困難に向き合い人生を開いてこられた体験を語られています。

 皆さん、こんにちは。 私は、先祖代々、身延山久遠寺を熱心に信仰してきた、邪宗日蓮宗の檀家の家に生まれました。

  その害毒によるものか、私が生まれたときは、左胸の骨がすべて内側に曲り、左の胸が挟(えぐ)られたような状態で取り出されたそうです。その上、全身にひどいアトピー性皮膚炎、さらには喘息(ぜんそく)まで持って生まれてきました。

 そんな私を見て、両親は悲嘆にくれ、どうする事もできずに、ひたすら日蓮宗の本尊に手を合わせて祈祷し続けたということです。

 その結果、アトピーによる痛みと痺(かゆ)みはどんどんひどくなっていき、泣き叫ぶ私に村して、ステロイド剤が投与されました。この薬を全身に塗(ぬ)ると、一時的に痒みをおさえることはできるのですが、強い薬なだけに副作用も大きく、何度も薬を塗り重ねた患部はケロイド状になって色素がぬけ、白いアザとなって残ってしまいました。

 思春期の頃には、鏡を見るのが怖く、絶望感で押しつぶされそうになって、どうして、こんな醜(みにく)い身体に生んだのか」と両親を逆(さか)恨みすることさえありました。

 そんな私にも、唯一心の安まる時間がありました。それは、絵を描くことでした。私は、病気の苦しみを逃(のが)れるために、絵の道に打ち込もうと思い、上京して芸術短期大学に入学しました。当時の私は、努力と信念さえあれば、必ず道は切り開かれる、幸せになれる、と信じていたのです。

 その後、縁あって、やはり絵の仕事をしている主人と出会って結婚、一見、幸せに見える日々が訪れました。

 しかし、邪宗の害毒による宿業は、それほど軽いものではなく、長女・佳苗を出産した日から、一時の幸せは消え失(う)せ、再び奈落(ならく)の底に落ちることとなったのです。

 私の長女・佳苗は、自閉症(じへいしょう)という病気を持って生まれてきました。

 自閉症というと、単なる引っ込み思案な性格、くらいに思っている人も多いようですが、じつは自閉症とは、生まれつきの脳障害で、視覚・聴覚などの感覚器官で捉えた情報を、正しく理解することができない、つまり、見たり聞いたりしたことを、普通の人と同じように、あたりまえに理解することができない、という脳の病気なのです。

 それによって、どういう症状が現われるかといいますと、自分の気持ちを伝えたり相手の気持ちをくみとる、ということができないため、他の子供と遊んだり、友情を育(はぐく)むということができなくなってしまいます。したがって、言葉を覚えることも難しく、精神の成長も遅れる場合がほとんどです。

 事実、佳苗にとっては、母親である私の存在も、道ばたの石ころと何ら変わることがなく、私達とともに、嬉しい・悲しいといった感情を共有することもありませんでした。

 同じ道順、同じ着替えの順序、同じ日課などへのこだわりが強く、これらに少しでも変更があると、大変なパニックを起こして奇声をあげ、時には自分の体を傷つける行為をくり返すこともありました。

 電車に乗る時も、近所に出かける時も、私たち夫婦は、娘が起こす激しいパニックを、いつもいつも恐れていなくてはなりませんでした。

 それは、一時も心の休まることのない、地獄のような日々でした。

 さらに救いがなかったのは、この自閉症は原因不明の病気であり、現代医学では完治することができないという事実でした。

 小さな子供のパニックでさえ大変なのに、やがて成長した娘が、自分の手を鉛筆やナイフで刺したり、顔を血だらけになるほど掻きむしったり、壁に頭を何度も打ち付けたり……、大人の力でそれをされたら、止めることもできません。考えただけで、絶望感に押しつぶされそうでした。

 そんな佳苗も小学校に入学する年齢となり、発達相談所のアドバイスによって、何とか普通学級へ入学させました。

 しかし、毎日の送り迎えに加えて、いつ起きるか予想できない娘のパニックに備えて、私は、毎日、学校の道具置き場で待機せざるをえませんでした。

 その頃の私はノイローゼ状態で、「ここから逃げたい。死にたい。この子さえいなければ……」と嘆くばかりでした。

 そのような折、平成十年七月、佳苗が前に通っていた幼稚園で知り合った父兄の竹井はるみさんから、この仏法の話を聞く事となったのです。

 宗教に村して先入観を懐(いだ)いていた私は、嫌々ながら聞いていたのですが、そんな私の態度にはお構いなく、竹井さんは本当に真剣に話してくれました。

 そして、私の背負った不幸は、この仏法に背いて生きてきた果報なのだから、逆に仏法に従っていけば必ず幸せになれる-「佳苗ちゃんの障害も絶対に治るよ」と言い切ったのです。

 その言葉に後押しされるように、私は佳苗とともに入信しました。(拍手)一ケ月後、主人も「佳苗が治るなら」と信仰につくことができました。

 そして、家族三人で日々、御本尊様に手を合わせてお題目を唱えていくと、起こりえない事が起こってきたのです。

 忘れもしません、入信半年を過ぎた三月三日のことです。学校から帰ってきた佳苗が、「疲れたから寝ようか」と言ったのです。

一瞬、何が起きたのかと思いました。私は主人と顔を見合わせ、「疲れたって言葉は、感情を表わす言葉だよね」と確認しあいました。

 以後、佳苗は、次第に人とのコミュニケーションがとれるように変わり始めたのです。

 さらに、この頃から、周りの人達が、佳苗の事で本当に親身になって協力してくれるようになってきました。

 私の身近な所でも、障害を持った子供が普通学級に入ったものの、他の子供からいじめられたり、父兄からうちの子の勉強に差し障ると責められて、結局、心障者学級に移ってしまった、ということがありました。

 それなのに、佳苗の場合、六年間の小学校生活の中で、いじめにあった事など一度としてなく、逆に、同級生のお母さんからは、「うちの子が優しくなったのはかなえちゃんのおかげ」と言われたり、四年生の時の担任の先生などは、「来年もかなちゃんを受け持ちたい」と校長に直訴(じきそ)して、結局、卒業までの三年間、ずっと担任として面倒をみてくれることになったのです。

 その頃、私自身の身体にも変化が起こり始めました。

毎朝起きると、シーツが血だらけになっているほど掻きむしり、苦しんできた、あのアトピー性皮膚炎が、自然に治ってしまい、ステロイド剤を使う必要が全くなくなってしまったのです。

同時に喘息の発作も治まり、以来、今日まで一度として発作は起こっていません。

 このようなことは、私自身の努力の及ぶところではありません。この仏法の功徳としか考えられないことの連続でした。

 また、この間の平成十一年十二月には、次女の志保が生まれました。

 普通、自閉症の子供が生まれた場合、二人目の子供も同じ障害を持って生まれてくることが多く、その確立は九十%を超えています。

ですから、通常は、出産を控えるのがほとんどです。

 しかし私たちは、すべてを御本尊様に委(ゆだ)ねる覚悟で、授(さず)かった子供を出産することにしたのです。その結果、心身共に健康な子供が生まれてきました。

 そして、この妹の存在が、佳苗の成長に大きな影響を与えることとなりました。

 というのも、徐々に人とのコミュニケーションがとれるようになり、使える言葉も増えてきたとはいえ、まだ、佳苗は自閉症が治ったわけではなく、自分の世界に踏み込まると、激しいパニックを起こしたりしていました。

 ところが、すくすくと成長する妹の志保は、そんな姉の状態にお構いなく「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と付きまとい、相手にしてもらえないと、大声で泣き叫び、姉の腕をとって無理矢理にでも進んでもらおうとするのです。

 こうして、どんどん自分の領域に入ってくる妹に対し、最初は恐怖し、パニックを起こしていた佳苗でしたが、姉にかまってもらうと、泣きやんでニコニコする妹に、次第に表情が軟らかくなっていきました。そして、本当に仲良く遊べるようになり、時にはお姉ちゃんぶりを発揮したりするようになったのです。

 また、私は、入信当初に高野幹事の体験を聞き、それ以来、心の支(ささ)えにしてきました。

 ある時、高野幹事と直接、お話する機会があり、どのようにして賀一さんの病気を克服されたのか伺うと、幹事は一言「折伏ですね。」と言われました。そして高野幹事は、「大草講頭から『罪障消滅のためには折伏をしなくてはならない』と御指導いただき、親戚、知人、近所の人達と、片っ端から折伏して歩きました。本当に楽しいですよ、有り難いですよ。いつも、いつも折伏したくて、折伏させていただくために、お友達になったりするんですよ。賀一が幼稚園の時、そして小学・中学・高校と、その都度に周りを折伏しては村八分になりました。でも、その功徳で、絶望的な窮地(きゅうち)を何度も御本尊棟から救っていただきました。本当に折伏の功徳は絶大ですよ」と言葉を続けられました。

満面に笑みをたたえて、それは楽しそうにお話しされる姿に、境涯の違いを感じ、”本当に凄(すご)いなあ”と、ただただ感動するばかりでした。

 いつも目先の事に一喜一憂する、信心の弱い私でしたが、同じ原因を積めば同じ結果がいただけるのだと思い、この日から折伏の実践を決意しました。

 そして、御本尊様に祈って、ビクビクしながらも友人や知人、学校の先生達を折伏していきました。

 次には、創価学会員への折伏も心がけ、公明党のポスターの貼ってある家を見つけては、一件一件折伏していきました。当然、バリバリの池田狂信者はかりで、メチャメチャに罵(ののし)られ、その頃から、夜九時過ぎになると、学会男子部の執拗な訪問を受けるようになりました。

 しかし、怯(ひる)む心を振り払って折伏をしていくと、それに比例するかのように、さらに、さらに佳苗の症状が良くなっていったのです。

 そして、中学入学を目前にした今年の三月始め、驚くべきことが起きました。

佳苗が突然、入信前の記憶を話し出したのです。「ねえ、ねえ、お母さん。佳苗ちゃんね、昔、幼稚園の時、しやペれなかったよねえ。真っ暗だった。怖くて、怖くて。一番怖かったのはお泊ま会の時だった。夜、真っ暗で恐くて、お友達の名前をずっと呼んで泣いてたよねえ。でも、今しゃべれるようになったよね。御本尊様に南無妙法蓮華経と言うようになってから、しゃべれるようになったよね」と。

 私は、驚いて耳を疑いました。

 それまで、自閉症という障害は、喜怒哀楽(きどあいらく)を感じたり、人間らしい感情を持ったりすることができないのだ、とばかり教えられていたのですが、本当は表現できないだけで、耐え難い苦しみを感じて続けていたことがわかりました。

一番辛(つら)かったのは、主人でも私でもなく、佳苗本人だったのです。

 それにしても、自閉症を背負った子供が、過去の、それも全く感情を持てなかった頃の苦しみの記憶を話すなど、有り得ないことです。

 この出来事に私は、表面的にはまだ多少、問題は残っているものの、本質的な部分で、佳苗の障害はすでに治っていることを確信しました。

 こうしてこの春、佳苗は無事に中学に進み、家から三十分程の中学校に通うようになりました。この時、佳苗は登校についても、自分自身の意志をハッキリと示したのでした。

 「一人で学校へ行きたい。お母さんはついてこないで大丈夫。皆と同じ様に行きたいの」と強く言い張るので、御本尊様に祈って学校へ送り出しました。「いってらっしやい」と送り出したものの、いても立ってもいられず、自転車で先回りをし校門付近で隠れて見ていると、佳苗は、先生やお友達に挨拶をしながら校門をくぐっていきました。 

 いつもいつも、一瞬たりとも側を離れることのできなかった、あの佳苗が、私の手を離れ、一人で三十分も歩いて登校できるなんて本当に夢のようで、有り難くて、有り難くてなりませんでした。

 蔵の財・身の財・心の財

 さらに仕事の面でも、大きな功徳をいただくことができました。

 私たち夫婦は、十年ほど前からフリーのイラストレーターとして活動しています。しかし、この不況下、ほとんど仕事が入らず、不本意ながらも主人が別の仕事をして、家計を支えていました。

 ところが、昨年八月頃より、途切れることなく仕事の依頼が入るようになってきたのです。周りの同業者を見れば、皆、仕事をとるために四苦八苦しており、私の状況に同業の友人も皆驚いております。

 最近も、アパレル業界で常に好位置をキープしている会社から、新ブランドの企画に当たりイラストレ一夕ーを捜している、との話があり、以前、主人と私とで作った作品集を持ち込みました。この作品集がレストランの企画担当者の目にとまったのです。

 私の絵が、新たにオープンするレストランのイメージにピッタリだとのことで、その場で決定となりました。

 私は幼い頃より絵を措く事が大好きで、将来は、大好きな絵の道で仕事がしたいと思っていました。それも、できれば机の上の小さなスペースではなく、大きな空間の中に、自分のイメージの世界をダイナミックに表現し、いろいろな方々に楽しんでもらえる作品を作りたい、と願ってきました。

 今回のこの仕事は、私が幼い頃より夢見てきた、まさにその仕事だったのです。

改めて、この仏法の有り難さを確信しました。

 さらに先日、次女の志保が、「ねえお母さん、そこ、そこ。白いアザが消えてるよ」と言ってきました。鏡を見てみると、子供の頃にステロイド剤の副作用で色素がぬけ、大きな白アザとなっていたところが、なんと、普通の肌になっているではありませんか。

 治らないものと言われ、すっかり諦(あきら)めていたのですが、今さらながらに若しかった過去の記憶が蘇(よみがえ)ってきて、ただただ、御本尊様のお力の前にひれ伏す思いでした。

 蔵の財(たから)、身の財、心の財は、この信仰をしていない限り、揃(そろ)って得られることはないと言われますが、私は、この六年間の中で、確実にこの三つの財に恵まれつつあります。

佳苗のことがなかったら、あるいは私たちは、この素晴らしい仏法につけなかったかもしれません。今は、この仏法に導いてくれた佳苗に、心から感謝しています。

 先日、佳苗の中学の体育大会が行なわれました。

 行進の時に私達に向かって手を振り、リレーでは、走り抜いてバトンをしっかりと相手に手渡し、嬉しそうに私達の方へ駆け寄って来たり、楽しそうに踊りを踊ったり。私の隣にいた妹の志保が「お姉ちゃんすごい上手だね」と一言いました。私も「本当にすごいね」と言い、涙が込み上げてきました。

 入信する前の、運動会どころか、人と交わるだけで気が狂ったように泣き、パニックを起こして叫んでいた姿を思い出すたびに、本当に有り難くて有り難くて、どれほど感謝しても、しきれない思いです。

 この有り難い御本尊様への信仰を一生涯貫き、さらに、罪障消滅をめざして日々折伏に励む決意です。ありがとうございました。