日蓮正宗 根室山 法海寺

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◎友人葬とは

友人葬とは

創価学会や顕正会などで「友人葬(ゆうじんそう)」(出家していない在家が執行する葬式)を行なった人のなかには、僧侶のいない葬儀を目の当たりにして、親類から責められたり、「あんな葬儀では、故人は浮かばれない」と後悔している人が多くいます。もしあなたが学会員として、この感覚がわからないとすれば、相当洗脳は進んでいるのかもしれません。口にこそ出しませんが、出家して修行していない一般人が、お葬式を真似事をする姿は異様であり、仏の教えから見ても恐ろしいことであります。
 葬儀は、一人ひとりの人間の一生をしめくくる大事な節目です。また、三世の生命を説く法華経の信仰のうえからは、未来世の幸・不幸を左右する重要な儀式(ぎしき)です。もし間違った葬儀で大切な家族を送ってしまえば、皆さんの願いとは裏腹に、かえって故人を苦しめることになるのです。
 亡くなったから、葬儀のようなものをすればそれでいい、という考えは間違いです。

 「創価学会員は友人葬と決まっているから仕方がない」とか「顕正会では僧侶がいないから、それ以外に道はない」とあきらめないで、今一度、正しい日蓮大聖人の仏法、すなわち日蓮正宗の教えに基づく葬儀について考えてみませんか?

◇友人葬は、故人が希望していたことなので…。
 誰でも、家族の遺志(いし)を尊重したいと思うものです。しかし、故人の遺志は、心から「友人葬で送って欲しい」と願ったものだったのでしょうか?。本当にそのように言われたのでしょうか。
 「自分の葬儀は友人葬で…」と言った故人は、おそらく創価学会や顕正会の一方的な報道や間違った指導により、日蓮正宗に対する大きな誤解を持っていたからに違いありません。
 いまこそ、あなた自身が、自分の目で日蓮正宗の真の姿、教えを確かめ、大切な家族の成仏を左右する葬儀について、考える必要があるのではないでしょうか。

 

◇本人の信心によって成仏が決まるのですから、葬儀はどんな形でも構わないのではありませんか?
 日蓮正宗総本山第26世日寛上人は『臨終用心抄』に
 「臨終の一念は多年の行功(ぎょうこう)に依(よ)ると申して、不断の意懸(こころが)けに依る也」
と記されています。生前の信心によって功徳を積んでこそ、安らかな臨終を迎えられるとの御指南です。
 しかし「本人の信心によって成仏が決まる」と言っても、その信心が正しいものでなければならないことは当然です。しかも葬儀は、亡くなった方の一生をしめくくる大事な儀式であると同時に、来世への旅立ちの場でもあるのですから、どんな形でもよいはずはありません。極端に言えば、いかに生前、正しい信心を一生懸命に行なっていたとしても、葬儀を念仏宗などの邪教で行なってしまえば、生前の功徳も瞬時に消え失せ、深い罪障を背負って来世へと旅立つことになるのですから…。

◇創価学会の幹部や顕正会の先輩に、葬儀の導師を任せると、どうなるのですか?
 『当家引導雑雑記』という書物には
 「仰せに云く、不知案内にして亡霊の引導は、悪道に堕すべし。是は法然・弘法に超え過ぎたる罪障なり」
とあります。つまり、ただ「お経が読める」「信心の役職が上」というだけで、葬儀の導師としての正しい心得も知らない学会幹部や顕正会の人たちが行なう「友人葬」は、亡くなった故人を悪道に堕とし苦しめることになる、ということです。
 また、導師を務めた学会幹部(儀典部員)や顕正会の幹部は、念仏の法然(ほうねん)や真言の弘法(こうぼう)よりも大きな罪障を積むことになる、ということです。
 こうした「友人葬」で送ったとしても、故人が喜ぶはずもなく、参列した家族や友人、知人にも悪影響を及ぼし、導師を行なった人は堕地獄の深い罪障(ざいしょう)を積むだけなのです。まことに、呪(のろ)われた葬儀、恐ろしいとしか言いようがありません。

◇そもそも「友人葬」の何がいけないの?
 そもそも、現今の創価学会や顕正会の教義や本尊はみな、日蓮大聖人という仏様に背く「ニセモノ」だからです。
 ですから、葬儀の方式がどうのとか、僧侶に頼むとか頼まないとかいう以前に、創価学会や顕正会の「友人葬」で送られる故人は、死後の安らぎを得られるどころか、かえって謗法(ほうぼう)の悪因縁によって大変な苦悩を受けなければならないのです。皆さんは、亡くなった大切な家族に苦しみを与えようとはしていないはずです。

 家族の本当の成仏を願う皆さんは、今こそ勇気をもって法海寺を訪問し、日蓮大聖人の正しい葬儀のあり方を求めるべきではないでしょうか。

  『妙法尼御前御返事』
   人の寿命は無常なり。出づる気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露(つゆ)、尚譬(たと)へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先(ま)づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし。