日蓮正宗 根室山 法海寺

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【仏教コラム】

時間とは(妙法七字拝仰より)

時もまた、妙なのです。このことは前にも述べましたが、まず、いつから時というものが存在するのか、いつになったら時が終わるのか。今日、種々の考古学などからその証跡として、何万年前に、ある事物が存在したことが判り、その時点での時の経過を推測できます。しかし、その前、その前を推究すると、いつから時の経過が始まったのかを知ることは出来ません。したがって、判らないから、何人も時の経過は無限に存在していると言うほかありません。

未来についても同様に、いつ時の経過が終わるのかを推測できませんし、これも無限に存在すると言えます。 つまり、その際限は不可知であり、これは何人も断定推測できないのであるから、不可思議を示すものであります。

更にもう一つの問題は、この時の経過における過去・現在・未来を考えると、ここにも推測できない不思議さが横たわっています。

人の生活においても、過去は記憶によって種々の時の経過があったことが認められます。未来は不明ですが、これも現在、抱いている生活経験等によって、ある程度の未来の想定や推測が可能です。しかし、過去から未来への時の経過の移り方で全く捉えられないのが、現在という、過去より未来へ変化する一時点です。

前と後を秒で計り表すとすれば、例え何億分の一秒の前と後であっても、その数字が現在だという断定は、確実とは言いきれません。 それならば現在とはいったい、時をどれだけ細分化して計測したら正確な現在だと言えるのか。その方法は、時の微小分割量の際限が無限である以上、秒数の表現による正確な表示は不可能と断定されます。

では、時における現在とは、正確にはどのように定義されるべきでしょうか。 言うまでもなく、「今」は未来の時点からアッという間にやってきたかと思うと、直ちに過去になり、次から次へと今が連続しますが、その一点における今は、もう直ちに過去であります。故に、今とは過去と未来の跨(またが)り、未来より過去へ常に変化しつつ、そのいずれともつかない、連続の時であるといえます。

つまり、今は過去と未来に跨って、いずれとも区別がつけられないので、今とは過去であって未来という性格を含んでいます。また未来より過去へけじめのつかない変化を常に繰り返すことは、今という時の一点が、そのまま無限大の時間であることを示します。

そこで、今とは過去と未来であるとともに、その変化の中心に今があるという、二にして一、一にして二という不思議な存在であり、また今の一点は一点ながら、その連続は無限の時に通じ、無間の過去・未来を形成するという不思議な存在なのです。

さらにまた、過去と未来は時間の経過から大きく二つに分けられるが、これは今という一点に重なり合い、過去即未来、未来即過去という不思議な存在であります。

以上から、時において全く不可思議の当体が今であり、この一点が無限の過去と未来の一切を包含するのであります。これらよりして、不可思議とは妙であるから、時において今という一点こそ、一切の時を含む妙ということが成立します。

心地観経に、

「過去の因と知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」
(開目抄 御書571)

という金言があります。 この文を見るとき現在の一点に過去の因と未来の果が、そのまま具わっていることが明らかです。これが過去即未来、すなわち因即果であり、因果倶時であります。この不思議な現在の一念こそ、久遠元初にして永遠の時を具える本仏の一念であり、これを「妙法蓮華」と名づけられました。「当体義抄」に、

「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法これを具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。」
(当体義抄 御書695)

と教示される如く、久遠元初本仏の一念に具わる妙法蓮華の一法に、法界の時間、空間の一切が具わる故に、聖人はこの妙法蓮華を唱え修行されて、久遠即末法、因果一念即常住の悟りを開かれました。これこそ本門寿量の根源、一切仏法の基をなす久遠元初本仏の人法一箇の当体であります。

その即身成仏の事の一念三千が、法界に遍満する妙法蓮華の一法です。この一法は元初の一念一法界に一切を具す故に、これを信じ行ずる我ら末法の衆生も凡身を改めず、直ちに仏因仏果、すなわち妙を成ずるのであります。

御本仏の一念が妙法であるゆえに、信行の我等も直ちに妙法の当体なる大利益を成ずる次第であります。