日蓮正宗 根室山 法海寺

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【浄土宗】事実と真実

実と真実
 浄土宗の宗祖法然は、末法の衆生は法華経等の諸経では救われず、阿弥陀如来に念仏を称えることで、西方極楽浄土へ生まれ変わって成仏できると説いた釈尊が浄土三部経で、弥陀如来や極楽浄土への往生について説かれたのは、事実ではある。 しかし、それらが末法の衆生にふさわしいなどと、ひと言も説かれていないのもまた、事実だ。
釈尊が『無量義経』で、
「これまで説いてきた諸経は方便であって真実ではない (趣意)」(法華経23ページ)
と打ち消されたように、争土三部経等は、法華経を説くための方便の教えである。これが真実である。
 また、法華経で、
「私の本懐は、真実究竟の法華経を説いて一切衆生を成仏させること(趣意)」(同 111ページ)
と断言され、末法での弘教を日蓮大聖人に任されている。 そして大聖人は、経文の通りに御生まれになられ、法華経を弘められた。
 これこそ、末法の仏法の真実で、真実は法華経にある。 釈尊が浄土三部経を説いたのがいかに事実としても釈尊自身が否定した教えにすがってはならない。

偽りこそ浄土宗の真実
 浄土宗の相承は、曇鸞・道綽・善導・法然となっている。 だが実は、曇賞と道緯、善導と法然は、全く面識がない。
 なぜなら、曇鸞の死から約二十年後に道緯は生まれ、善導と法然はおよそ四百五十年もの時代差があるからだ。
 法然自身も当初、浄土宗に相承はないと明言していた。 ところがその後、経巻による相承と、夢で善導から直接受けた相承があると言い出した。これでは相承詐欺である。
 大聖人御在世当時に、祈雨で良観が負けた際、良忠が弟子の行敏を差し向け、大聖人を貶めようと画策したが失敗した。 思い通りにならない良忠(念阿弥陀仏)と念空 (道阿弥陀仏)は、大聖人の教えは邪義で、阿弥陀如来等の本尊に火を着けたり水に流していると、嘘をでっち上げて幕府に讒訴した。
 ここから竜口の法難へと繋がっていくのだが、良忠も念空も法然の孫弟子で、小松原の法難にも関わっている。 これらについて大聖人は、
「頸を切れ、所領を追ひ出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。此偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出でたり」(御書475ページ)
と記されている。

念仏から幸せは始まらない
 法然が言うように、末法の衆生が娑婆世界で救われないのなら、釈尊はなぜ、娑婆世界で成仏する教えを説かないのか?
 なぜ、わざわざ生まれ変わって因縁のない他土を求めさせるのか?
 生まれた時点から成仏に見放され、末法に出現したこともない阿弥陀如来や、架空の西方極楽浄土を夢見ながら生き続けるのか?
 もしそうなら、頼みの阿弥陀如来も、「成仏したいなら、今世ではひたすら念仏を称え、死んだ後に生まれ変わっておいで」と遠くから見ているだけ。衆生は現世を悲観し、生きていく活力を失ってしまう。
 こんな偽りと無慈悲の念仏から、幸せが始まるはずがない。
 大聖人は、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(同991ページ)
と御示しである。
 大聖人の教えこそ、己の人生と向き合い、この姿婆世界で力強く生きて成仏できる真実の教えである。