日蓮正宗 根室山 法海寺

MENU

◎遥拝勤行って?

本尊下付と遥拝勤行の矛盾

「遥拝勤行」の根拠として、
『千日尼御前御返事』の、

「御身は佐渡の国にをはせども
心は此の国に来たれり。(中略)
御面を見てはなにかせん。
心こそ大切に候へ」(御書 一二九〇)

の文を挙げる。

しかし、当文は老齢の夫阿仏房を
身延の大聖人の元へ送り出した千日尼の信心を
称賛されたものであり、
けっして顕正会の言う「遥拝勤行」の意義を
示したものなどではない。


そもそも阿仏房夫妻は、
この時点で大聖人から御本尊を賜っており、
日々御本尊を直接拝していたのである。

よって前掲御書は、あくまで夫の留守を護る状況と、
老齢であることなどを加味した、千日尼への賛辞である。

病によって参詣が疎かになっていた南条時光に対して、

「参詣遥かに中絶せり。急々に来臨を企つべし」(同一五六九)
と仰せのように、信仰の基本として
登山参詣が存することは明らかです。

また「遥拝勤行」に重要な意義があるかのように指導する一方、
日蓮正宗の元僧侶から託されたと称する、
総本山の認可がない御本尊を会館に勝手に安置し、
さらには偽造疑感のある出処不明の本尊を
各地の会館や自宅拠点などに配布する始末である。

一刻も早く御歴代上人御書写の御本尊を総本山大石寺に返納し、
疑惑の本尊下付もやめ、「時に適った信行」とする
「遥拝勤行」を徹底すればまだ筋も通るがこの矛盾はどう説明するのか。

このような自語相違、矛盾した指導は、
日蓮正宗から破門され、 御開扉内拝も
御本尊下付も許されないことによる、苦し紛れのものです。
(大白法1102号 抜粋)

顕正会のみなさん。
あなたはなぜ本物の御本尊様を頑なに拝さないのですか
意地を張り、怒り、声を荒げて何が残るのでしょうか
一度、自分の目で本物の御本尊様を拝してみてください。

「参詣遥かに中絶せり。急々に来臨を企つべし」(御書一五六九)

遥拝勤行こそ秘術??

日蓮大聖人は『南條殿御返事』に、

「彼の月氏(がっし)の霊鷲山(りょうじゅせん)は本朝此の身延の嶺(みね)なり」(御書 一五六九頁)

と仰せられ、

「此の砌(みぎり)に望(のぞ)まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同)

と御教示せられている。
ここに、大聖人が身延を霊鷲山に譬えられたのは、

「かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(同)

と仰せの如く、、大聖人御在所の故である。
今日は、御本仏の御魂魄は本門戒壇の大御本尊であるから、総本山大石寺こそ、常寂光(じょうじゃっこう)の霊地にほかならない。

「参詣遥(はる)かに中絶せり。急々に来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし」(同)

大聖人がお持ちくださる総本山へ登山参詣することは「三業の悪転じて三徳を成」ずるところの精進なのである。
この大聖人の御教導を平然と踏みにじる者が、浅井昭衛率いる顕正会である。

御開扉(ごかいひ)が不当?
顕正会は、昭和四十九年八月に講中解散処分を受けた妙信講をもととする。現在は名を変え、僭越この上ないことに「冨士大石寺顕正会」と名乗るが、今や宗門とは、全く無関係の団体である。
その首魁(しゅかい)の浅井は、昨年十一月五日付の顕正新聞にて、次のように発言した。
「尊無過上の『戒壇の大御本尊様』を、宗門はいま営利の具としている」
「広宣流布のその日まで、戒壇の大御本尊様を守護し奉るのが、仏弟子の責務」
「不敬そして危険な御開扉を直ちに中止すべし」
浅井は、重要な仏道修行である登山を推進することが「御開扉料稼ぎ」で、登山者が増えればその中に混じって、「天魔は戒壇の大御本尊を狙う」
から危険だ、だから御開扉をやめよと主張するのだ。

遥拝勤行?
浅井は続ける。
「遥拝勤行こそ、末法三毒強盛の凡夫を、直接、戒壇の大御本尊に繋(つな)ぎまいらせる秘術であり、広布最終段階の信行の姿なのです」(同)

「秘術」?
「広布最終段階の信行の姿」?
御本尊様を直接拝する必要はない?

実に、独りよがりの妄想とも言うべき虚言。これを邪義と呼ばずに、何と評すべきだろう。

会員たちへの目眩(くら)まし
顕正会は、既に四十年以上にもわたり、宗門とは別個の活動を行っていて、その間に入会した会員は、一度たりとも総本山へ参詣したことがない。
浅井が「遥拝勤行こそ」「秘術」とか、「広布最終段階の信行」などと言うのは、そんな会員たちへの目眩ましに過ぎない。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、

「毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書 一五〇二㌻)

と御教示しである。
この御金言を拝せば、総本山に参詣し、本門戒壇の大御本尊にお目通り申し上げることは、実に尊い仏道修行であり、そこに広大無辺なる大功徳が具わることは、
明々白々である。
大謗法に陥(おちい)ったが故に総本山への参詣が叶わなくなった者に、
「不敬」だと「危険」だのと言われる筋合いは毛頭ほどもない。

本門事の戒壇
総本山第五十二世日霑上人は『三大秘法談』に、
「未だ広布の時至らず実の戒壇建立なしといえども、此の処則ち是れ本門事相の戒壇にして、此の砌に一度も詣ずるの輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して三業の悪を転じて三徳を成ぜんこと、経文並びに大聖人の御金言、毛頭疑いなきことでござる」
(研究教学書)
と御指南されている。
大聖人出生の本懐にして、凡下(ぼんげ)衆生の罪障消滅と積功累徳(しゃっくるいとく)の根源たる、本門戒壇の大御本尊から遠ざけんともくろむ浅井の暴言こそ、
不敬極まるものにして、かかる大謗法が弘まることこそ、危険この上ない。
この邪義邪説を駆逐(くちく)するのは我らの折伏のみ。浅井に惑(まど)わされた会員たちに、一刻も早く正義を諭(さと)していこう。

(大白法 第1000号 平成三十一年三月一日)