日蓮正宗 根室山 法海寺

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Q.なぜ神社はダメなのですか?

なぜ神社がダメなのですか?

私住職の個人的な思い込みではありませんので、少し聞いて下さい。

日蓮正宗では、
「南無妙法蓮華経の御本尊を信ずる人は、
御本尊への信仰に専念すべきであって、
それ以外、神社から御守りをもらってきたり、
神社へ参拝する等の行為はやめましょう」と教えます。

これに対してあなたが、
「神社にお参りしたい」
「正月にはお札を貼るもんだ」
「御守りをひとつぐらい持っていたって、いいじゃないか」
と考えて、日蓮正宗の教えを偏狭(へんきょう)に感じたり、
抵抗感を持つ場合があるかもしれません。


そもそも、あなたが神社への参拝や神棚、御守りなどに固執(こしゅう)するのは、「神社に祭(まつ)られている神様には尊い力がこもっており、
その力によって災難から守ってもらえる、
受験なども合格させてもらえる」
と考えていることによるのではないでしょうか?

しかし、そうした考えは、残念ながら、実は、まったく逆なのです。
 日蓮大聖人は
「世(よ)皆(みな)正に背(そむ)き、人悉(ことごと)く悪に帰(き)す。
故(ゆえ)に善神(ぜんじん)は国を捨(す)てて相(あい)去り、
聖人(しょうにん)は所を辞(じ)して還(かえ)りたまわず、
是(こ)れを以って、魔(ま)来(きた)り鬼(き)来り、
災(さい)起こり難(なん)起こる」
と教えられています。

末法と呼ばれる今の時代は、白法隠没(びゃくほうおんもつ)といって、
仏法を正しく信仰する人が極端に減ってしまうが故に真実の仏法の勢いも減少し、
よって、仏法の功徳を活動力の源と頼(たよ)っていた諸天善神はみな、
法味(ほうみ)に飢(う)えて社(やしろ)を捨て、去って行く、と説かれています。

しかも、それだけでなく、主(あるじ)を失った神社には、
代わりに悪鬼(あっき)・魔神(まじん)が棲(す)みついて、
お参りをしてくる人々の心を惑(まど)わせ、
災難(さいなん)を引き起こします。

ですから、有名な神社の社(やしろ)や、あなたの家にある神(かみだな)、
お子さんがカバンにさげている御守(おまも)りの札(ふだ)には皆、
悪鬼(あっき)が棲(す)み着いているため、
たとえそれを真剣に拝(おが)んでいなくても、
おのずとあなたや、あなたの家族の生活に悪影響(あくえいきょう)を及ぼしたり、
体調を崩(くず)させたり、はたまた、先に亡くなった先祖の精霊をも
苦しめる結果となるのです。

 法華経には
「若(も)し人、信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば、
則(すなわ)ち一切、世間の仏種(ぶっしゅ)を断(だん)ぜん…
其(そ)の人命終(みょうじゅう)して、阿鼻獄(あびごく)に入らん」
(法華経譬喩品)
と説かれています。

末法という現代において、「此の経」とは
南無妙法蓮華経の御本尊(ごほんぞん)」のことです。したがって、
現今においては、日蓮正宗以外の宗派の本尊や、神社の神札、
御守りなどの信仰の対象物は皆、末法の正法に背くものであり、
人々の生活を乱し、健康にも不調をきたす根源となっているのです。
よって、お札や御守りや信仰に関連するものには、
徳がないばかりか人生に不調和をきたす原因となる、ということです。

第六十六世日達上人
神は正直者の頭(こうべ)にある(と、日本を代表する諸天善神・八幡(はちまん)大菩薩は語っている)。必ずしも頭のてっぺんにいるわけではない。正直の人の心の中にある。もし諂曲(てんごく)する(こびへつらったり、他人をだます)もの、嘘、偽るものの心には神は宿らない。では、この正直者とは何か。日蓮大聖人は、(正直者とは)南無妙法蓮華経を信ずる人であると説かれ、インドの釈尊は法華経に「正直捨方便」「不受余経一偈」と語り、正直に方便の教えを捨てて他の一句をも受けない、これが正直であると説かれている。

 すなわち、あらゆる謗法(ほうぼう)の念慮を絶して南無妙法蓮華経を唱える人こそ正直の人である。ゆえに南無妙法蓮華経を唱える正直の人の心に神は宿るのである。今、われわれが御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱えているとき、そこに神様があるので、それ以外に絶対、神様はないのである。
 だからわれわれが神社をお参りしてはいけないというのは、神様もいないところにお参りするのは、そこにはもう魑魅魍魎(ちみもうりょう)、すなわちあらゆる悪魔のいるところにお参りすることになる。だから神社にはお参りする必要はないのです。ただ御本尊様に向かって正直に謗法(ほうぼう)の心を絶して南無妙法蓮華経と唱える、その人にこそ神様が宿るのである。それゆえに、神社にお参りしないことを(日蓮大聖人は)明らかに説かれているのでございます