日蓮正宗 根室山 法海寺

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Q. 塔婆の建立意義 必要性について知りたい

塔婆について まとめ


先祖や故人の命日・年忌、春秋の彼岸や
盂蘭盆うらぼんなどには、追善供養のため塔婆とうば建立します。
塔婆とは、もともと古代インドの語で「卒塔婆そとば(スツーパ)」といい、「塚」「びょう」「方墳ほうふん」などを意味し、特に仏教においては、仏舎利や経巻などを安置した供養の塔をいいます。この塔は、仏に対する報恩と信仰を象徴したもので、その形も五重塔などの堂塔から五輪の石塔・角塔婆・板塔婆などの種々の供養塔として表されています。
塔婆は、丸や角の形を積み重ねて一つの体を表しています。下から方形(四角)・円形・三角形・半円形・如意にょい宝珠ほうじゅの順序で五輪ごりんの塔に組立てるのが基本的な形であり、これは一切の森羅万象しんらばんしょうを構成するすいふうくうの五大を表しています。このことについて大聖人は、
「五行とは地水火風空なり。(中略)これすなわち妙法蓮華経の五字なり」(総勘文抄そうかんもんしょう 新編1418頁)
と仰せられ、地・水・火・風・空の五大が妙法蓮華経の五字を意味することを説かれています。そして、その塔婆に戒名等を記すことにより、故人の生命が仏とともにあることを示すのです。
本宗における塔婆供養は、五輪が刻まれた板に題目と故人の名をしたため、御本尊のもとで読経・唱題し回向すると感応妙の原理により、その塔婆は仏界を現じ、真の追善供養がなされるのです。大聖人は、

「丈六のそとば卒塔婆をたてゝ、其のおもてに南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、(中略)過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、大の日月の如く浄土をらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿いのちを百二十年持ちて」(中興入道御消息 新編1434頁)
と仰せられ、塔婆供養の功徳は自他ともに及ぶことを示されています。
本宗信徒は、
「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし」(上野殿後家尼御返事 新編338頁)
と大聖人が仰せのとおり、真心からの追善供養を心がけるべきです。

 

(日蓮正宗入門)

一、 塔婆の歴史

塔婆の起源について考察すると、その歴史は古く、釈尊自らが造立し、及び造立を許可したことが、『十じゅ律』・『摩訶僧祇律』等に説かれている。語源の「スツーパ」とは、「頂」・「高顕処(こうけんじょ)」・「功徳聚」・「廟」・「塚」・「方墳」・「宝塔」・「塔」等の義であり、その始源においては、一般的に「墳墓(ふんぼ)」の義が存したと推定される。しかし、仏教教団においては、特に仏舎利等を安置した建造物を意味し、仏滅後、信仰の対象として、盛んに造立されるに至った。インド・東南アジア各国の大塔がそれに当たる。この仏塔建立の甚大な功徳については、『造塔延命功徳経』・『造塔功徳経』等に説かれるように、「塔」には、仏に対する報恩と信仰を象徴する意義を有したのである。しかしまた、この「塔」の意義対象が、ただ仏のみに限るものではなかったことは、『根本説一切有部毘奈耶(びなや)雑事』第十八によって判る。すなわち、「如来」・「独覚(どくかく)」・「阿羅漢」・「小乗聖者」・「凡夫」等によって、それぞれの塔の造リ方に相違があることを述べているごとくである。また、『瑜伽(ゆが)論記』第二十一に、「卒覩波(そとば)は此に供養處という」とあるように、故人に対する供養の意義をも有していたのである。

さらに仏教東漸に伴って、中国及び日本にも、この塔婆の化儀は受け継がれ、仏塔の意義としては、五重塔などの寺院における堂塔として建立され、故人への供養の意義としては、五輪塔婆、角塔婆、板塔婆として伝えられてきたのである。

二、 塔婆の意義

以上は、仏教一般における塔婆の歴史である。この「塔婆」の化儀は、本宗信仰の上からみた場合、当然、妙法によって開会(かいえ)されたものでなければならない。『法華経』においては、「塔」はどのように説かれているであろうか。

『方便品』には、

  • 「若しは廣野(こうや)の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯(たわむ)れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」(開結180ページ)

と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、

  • 「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須(もち)いず。所以(ゆえん)は何ん。此の中には、已に如来の全身有(いま)す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞(ようらく)、繪蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結391ページ)

と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。

さらにまた、『法華経』においては、『見宝塔品』より『嘱累晶』に至るまで涌出した大宝塔を中心として、法義上、最も重要な久遠の開顕と付属の義が説き顕わされている。この大宝塔の意義を文底の仏法より拝すれば、即、人法一箇の南無妙法蓮華経の法体の意義となる。このことは、『諸法実相抄』の、

  • 「釈迦・多宝の二仏と云うも用(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座侯へ」(全集1358ページ)

との御文に明らかである。すなわち、大聖人の文底仏法の上から宝塔の意義を御指南あそばされた『阿仏房御書』には、

  • 「多宝如来涌現の宝塔、何事を表し給うやと云云」
  • 「法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり」
  • 「宝塔をかきあらはしまいらせ侯ぞ。(中略)出世の本懐とはこれなり」(全集1304)

と、宗祖御図顕の御本尊こそ宝塔であると仰せである。さらにまた、

  • 「南無妙法蓮華経と唱うるものは、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」
  • 「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房。此れよリ外の才覚無益なり」(全集1304)

と、南無妙法蓮華経と唱える弟子・檀那の一身が、まさに妙法の宝塔であると仰せである。

このことは、さらに『御義口伝』「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」の『宝塔品』の下に、

  • 「宝塔とは我等が五輪・五大なり」
  • 「妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり」
  • 「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」
  • 「妙法蓮華の見なれば、十界の衆生・三千の群類、皆自身の塔婆を見るなり」
  • 「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生、一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(全集797ページ)

との仰せのように、大聖人の証道観心(しょうどうかんじん)において、宝塔と塔婆は同義であり、法界の一切衆生が、そのまま妙法蓮華経の宝塔・妙法蓮華経の塔婆であることをお示しである。ただし、それは『草木成仏口決(ぐけつ)』に、

  • 「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」(全集1339ページ)

と仰せのように、この宇宙法界の全体が、本来、本仏日蓮大聖人の御身そのものであることの意義からの御指南である。故に、個々の衆生においては、南無妙法蓮華経を信受しなければ、そこに成仏があり得ないことは当然である。すなわち、『上野殿後家尼御返事』に、

「いきてをはしき時は生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なり」(全集1504ページ)
と仰せのように、生きているときの成仏が、本仏御図顕の宝塔たる御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところにあることは当然である。では、死の生命に対する回向は、どのようにすればよいのであろうか。これについて、大聖人は、『草木成仏口決』に、特に死者の成仏は塔婆の功徳にあることを、次のように仰せである。

  • 「妙法とは有情(うじょう)の成仏なり。蓮華とは非情(ひじょう)の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼(かいげん)供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1338ページ)

すなわち、我々有情の一身の五大は、死後は宇宙法界の非情の中へ冥伏(みょうぶく)する。その冥伏した法界の非情とは、本来、無作三身(むささんじん)の当体であるから、死後の生命の五大も、本来は仏身である。しかし、そこに宿業により、迷悟・染浄の相違が存する。故に、法界中の非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その功徳が法界冥伏の精霊(しょうりょう)に、ただちに回向されるのである。これが、塔婆供養の尊い意義であり、死の成仏たる草木成仏の本義であると、御指南されたのである。ただし、その塔婆の開眼供養とは、権教によってではなく、必ず仏教の根源の大法たる南無妙法蓮華経によらなければならないことは当然である。したがって、塔婆には、必ず御題目を書写しなくてはならないのである。このことを御教示された御書に、次の『中興入道御消息』がある。

  • 「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒塔婆)をたてて、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)其の風にあたリて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況や、かのそとばに髄喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびき(響)のあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此れより後後の御そとばにも、法華経の題目を顕し給へ」(全集1334ページ)
このように、塔婆に南無妙法蓮華経の七字を認(したた)める功徳が、いかに大きいかを、わかりやすく御指南あそばされているのである(今日、我々僧侶は、塔婆に妙法蓮華経の五字を書写したてまつるが、その意義は理法としての妙法ではなく、事の一念三千たる南無妙法蓮華経である)。今回の創価学会の塔婆批判の文中に、「宗祖の御指南の塔婆とは、墓標のことである。板塔婆はずっと後世のものである」などとの強言があるが、当御書にいわれる塔婆が、墓標などではないことは、「十三回忌のそとぱ(卒塔婆)」「これより後々の御そとば」等の仰せに明らかである。また、当御書では、南無妙法蓮華経を認めた塔婆を眼に見るとき、随喜するところの信心が大切であると仰せである。塔婆を建立して回向するときは、その功徳に感謝の念をもたなければならない。創価学会のように、塔婆の功徳を疑い、僧侶に対する怒リの気持ちで供養を行なっても、果たして先祖に真実の功徳が回向されようか。甚だ疑問といわねばならない。

大聖人が、塔婆に必ず南無妙法蓮華経と認めるべきことを御指南された所以は、題目が認められることによって、その塔婆が仏身の当体と顕われるからである。つまり、亡くなった人も、その妙法の仏の命の中に摂尽されて、本因成仏の大功徳を享受することができるのである。学会がいうところの、「板塔婆を死者の追善供養とすることが法華経に説かれている道理はまったくない」等という説は、法華経の文底の深義にのっとって、塔婆に南無妙法蓮華経と認めることにより、一切衆生が死の成仏の功徳を得ることを教えられた大聖人の大慈悲に背き、またきらに衆生の真実の成仏の道を塞ぐところの、無慈悲な言である。まさに、天魔の所業であるといわねばならない。

また、同記事において、「板塔婆は日本だけの風習にすぎない」としている。確かに、邪宗の塔婆が、世界に弘まっては困る。しかし、日蓮正宗の正法にのっとった南無妙法蓮華経の塔婆の化儀は、世界の人々の真実の成仏のため、正法広布に伴って、大いに世界に教え弘めなければならないのである。

三、 塔婆に関する歴代上人の御教示

次に、総本山第9世日有上人は、塔婆について、『化儀抄』に、

  • 「率都婆を立つる時は、大塔中にて十如是自我偶を読みて、さて彼の仏を立つる所にて又十如是自我偶を読むべし。是れ又事の一念三千の化儀を表するか」(富要1-66)

と仰せである。この文について、第66世日達上人は、次のように解説なされている。「卒塔婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及び三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは塔婆建立回向する、その墓をいう。亡者の追福作善のため塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品・自我偶・唱題して、一度回向してから、その追善(ついぜん)すべき亡者の墓へその塔婆を建立して、方便品・自我偶・唱題して、追善供養するのであリます。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであリます」(日達上人述『略解』)。これらの御指南は、本宗において、大聖人以来、塔婆を建立して功徳を回向することが、死者の成仏・追善のための化儀とされたことを証明するものである。

また、同時に、本宗の塔婆供養とは、単に、題目を書写した塔婆を建立すればよいというものではない。あくまでも、本仏大聖人に対する師弟相対の信心にのっとった化儀であることを示されているのである。すなわち、塔婆供養に際して、大切なことは、一旦、全ての塔婆を、必ず大聖人(仏)の御墓の傍らに立てて供養し、その後に各自の墓に立てて供養するということである。この化儀は、今日、塔婆を各寺院の仏前の傍らに立てて回向することとして、厳然と伝えられている。これは、本仏大聖人を、どこまでも根本の大師匠と仰ぐ信心こそが、末法の衆生の成仏にとって不可欠だからである。すなわち、この化儀にのっとった塔婆回向によって、末法の亡き衆生は、御本仏大聖人と冥合し、唯一の大歓喜の成仏を享受することができるのである。本宗の塔婆供養には、かかる厳格な意義が存することを知らなくてはならないのである。同時に、その塔婆供養の甚深の意義を誹謗することは、宗祖大聖人、及び御歴代上人の御指南に背く大謗法であり、忘恩の所業となることを忘れてはならないのである。